いつになく静かな朝、大雪にでもなっているのではないかと思うくらい、音のない朝。こんな日に限って夢で目覚めた。ひどく悲しい夢であった。目覚めた後、先人はなぜ自身の将来の「夢」とまどろみの中の「ゆめ」を同じ言葉にしたのだろうか、そんなことに思いを馳せた。「ゆめ」は必ずしも実現してほしいものばかりでないが、「夢」は実現してほしいものだ。なのに同じ言葉。ふと、遠い昔に読んだ夏目漱石の夢十夜、そしていつか見た、黒澤明の映画「夢」を思い出す、鮮烈とも言える美しい映像と、現実と虚実が錯綜する不可思議な夢、嫌な夢、切ない夢。 思考は堂々巡り。しかしそうしているうちに、「夢」も「ゆめ」も結局のところ現実との関わりでしか語れないもの、ということに気がつく。そうであれば今朝みた悲しい夢も、しょうがないのだな、と自分を納得させることができる。結局のところ、当たり前のことではあるが人間は現実世界の中で生きているし、そこから逃れることは難しい。ただ、時に、おそらくは特に疲れた精神に、そこに虚構の味付けをして、人生に少しのスパイスを与えてくれるのがゆめであり、夢でもあるのかもしれない。そう思えば、ゆめも夢も私達にとってはやはり必要なものなのか。 そこまで考えて、ふと時計に目をやるといつもの起床時間になっていた。さあ、今日も間違いなく、その現実がやってくるのだ。
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