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「彼岸との交感 ― 生の淵にて」

  • hirosquirrel
  • 8月14日
  • 読了時間: 2分

この夏、私は「死」という輪郭なき存在と、いく度も静かにすれ違った。それは喪失でも絶望でもない。むしろ、時空の裂け目から滲み出る、生の根底にある「異質な気配」との邂逅であった。

恐山にて、風は語らずして語った。硫黄の匂いと、岩場に散る風車の回転音。そこには死者の沈黙があったが、それは終焉の沈黙ではない。むしろ、それは語りかけるような沈黙であり、レヴィナスの言う「顔」のように、私の倫理的応答を要請する他者性の表出であった。死者とは、不在というかたちで存在する「他者」なのかもしれない。

ジブリの展覧会で見た「あちら」と「こちら」を行き来する物語群は、境界線を曖昧にする装置であった。世界は一つではない。時間も直線ではない。医師として臨床の場にいるとき、私は「現在」を生きる患者とともに、未来になり得なかった可能性と、未完の物語と、終わりの気配と共に在る。この世界には、可視と不可視の重層があることを、作品たちはさりげなく教えてくれる。

八甲田山では、自然のあまりの無関心さの中に、自らの有限性を知った。雷が空を割り、風が衣服を剥ぎ取るように吹きすさぶとき、私は「死」を抽象から具体へと翻訳し直す必要に迫られる。だが奇妙なことに、その恐怖の只中にあって、私は極めて冷静であった。死が「私の死」ではなく、「他者の死」のように遠ざかっていくのを感じた。それはどこか、レヴィナスの言う、「死は私に属しながらも、私のものでない」という逆説を実感する瞬間でもあった。

『The Parade』を観た夜、私はようやくこの夏の体験を一つに編む糸を見出した。死者とともに歩く者たち。その姿は、医療者として日々私が目にするものと重なる。人は決して死を「知る」ことはできない。だが死を「感じる」ことはできる。それは私の死ではなく、常に「他者の死」として、私に対して現前する。そこにこそ、倫理の契機がある。

医師として私は、「死と向き合う」のではなく、「死を通して他者と向き合う」。それは決して解決されるべき課題ではなく、ただ応答し続けるべき呼びかけである。

この夏、私は幾度となくその呼びかけに立ち止まった。恐山の風、八甲田の嵐、ジブリの幻想、映画の沈黙。すべてが「死」という名の沈黙の他者であり、私はただ、黙って耳を澄ますほかなかった。

 
 
 

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