あなたを覚えてる
- hirosquirrel
- 7月11日
- 読了時間: 2分
『あなたを覚えている』
最初に出会ったのは、静かな場所だった。
光は柔らかく、水音のようなリンパの流れが、遠くで揺れていた。
彼は小さなT細胞。まだ誰のことも知らず、何ひとつ戦ったこともない。
胸腺という聖域で、彼は夢を見ていた。
世界がどれほど広いのかも、そこにどんな痛みが待つのかも、まだ知らない。
ただ——誰かを守るために生まれてきたことだけは、なぜか知っていた。
やがて旅が始まった。血の流れに乗り、彼は体の中をさまよった。
目の前で崩れていく細胞、火のように燃える感染、戦いの傷跡。
敵か味方かも分からぬまま、彼は幾度となく剣を振るい、そのたびに、心のどこかが削れていった。
それでも、忘れなかった。
かつて、胸腺で夢を見たことを。
彼は老いた。仲間の多くはすでに散っていた。
でも彼だけは、まだそこにいた。
炎症の痕にひっそりと残された、たったひとつの記憶細胞。
名もない誰かの風邪、幼い日のワクチン、あるいは失われた愛しい人が、最後に残した微かな熱。
——そう、それは誰にも気づかれない小さな灯火。
けれど彼は、覚えていた。あの日、守ろうとした命を。胸腺で、約束した未来を。
もしも、この細胞に言葉があったなら——
彼はこうつぶやいただろう。
「わたしは、あなたを覚えている」
時が過ぎても。すべてが変わっても。もうあなたがいなくなっても。
この小さなからだの奥に、あなたの温度は、まだ残っている。
だから——生きて。
たとえこの記憶が誰にも知られず、静かに終わるとしても、それは、消えたわけじゃない。
かつて、あなたがここにいたという証を、わたしはずっと、抱きしめている。
——永遠に。
このところ腫瘍免疫の勉強をやり直しています。そんなとき、輪廻に関する物語に出会いました。免疫と輪廻、似ていると感じました。メモリーT細胞は輪廻の象徴、前世を知るという稀な存在にも通じるように思います。そんな想いでこの文章を紡いでみました。
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