今朝の地方紙に「先人から学ぼう」という記事が掲載されている。
新型コロナウイルスの拡大という苦難の中、野口英世に思いを馳せ、難局を乗り切ろうという企画である。
折しも5月21日は野口の命日である。現在のガーナ、アクラで51歳の生涯を閉じたその日である。
黄熱病の研究の最中、自ら現場に立ち、最後まで研究を続け、そして自らがこの病気に罹ってしまうという悲劇的な最後である。
研究生活において、常に皆から「野口は一体いつ眠っているのか」と驚かれていたというが、この異国の地でそしてアメリカに渡って以来、初めてゆっくりと眠りについたのだろう。
小学校の頃から、折に触れ野口のことを教え込まれた私は、新型コロナが蔓延する今、当然のように野口のことを思い出した。
私は、外科医であるとともに、癌の免疫療法を研究テーマとしてきた。あまり知られてはいないが、世界で初めて癌の免疫療法を行ったのは、アメリカ人医師で外科医のWilliam Coley先生である。Coleyは我々研究者の間では癌免疫療法の父と呼ばれているが、その治療の実際はなかなか大変なものであり、癌患者さんに細菌の毒素を打ち込み、高い熱を出させることで治療を行うというものであったらしい。それでも当時の新聞には、この方法を素晴らしい治療法として称賛し記事として残っている。私は自身の専門であるがゆえにColeyのことはだいぶ前から知っていた。しかし、最近になって野口とColeyの不思議な接点を見つけた。Coleyは1900年はじめにニューヨークで活躍する医師であった、先に挙げた当時の新聞というのはNew York Times紙であり、1908年に掲載されたものであった。1900年といえば、野口がアメリカに渡った年であり、生涯の師となるサイモン・フレクスナーが在籍したペンシルベニア大学に在籍を許され、蛇毒の研究成果をまとめて世に知られ始めたときである。1904年には設立されたばかりのニューヨーク、ロックフェラー医学研究所に移籍した。以降の活躍は皆が知るところである。1911年には梅毒スピロヘータの培養に成功したとして、まさに医学界における寵児となった。Coleyの活躍と時を同じくしていることに気がついた。そして、Coleyが当時働いていたニューヨークがんセンター病院と野口が働いていたロックフェラー研究所は至近距離である。人種は違えど、また、癌と感染症という専門の違いはあったとしても、当時のニューヨークの医学界で二人を知らないものはいなかったであろうし、当然二人はお互いを知っていたと考えるのはあながち間違った推測ではない。ひょっとすると面識があったかもしれない。
余談かもしれないが、2年前に新しい免疫療法の開発の成果に対して、二人の研究者にノーベル賞が授与された。うち一人は皆がよく知る、日本人研究者である本庶佑先生であるが、先生が医学を志すきっかけは野口の伝記を読んだからだという。
世界はどこかでつながっている。
野口英世の生家が今も残されており、記念館となっているが、その庭には「忍耐は苦しく、しかしその実は甘い」という野口の言葉が残されている。今この言葉が殊更心に響く。
先人は必死に春を惜しみけり
相生垣瓜人
今年ほど、春が惜しまれる年もないですね。
Crann Clog
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